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 当山は、その昔「談林」と呼ばれておった。いわばお坊さんの大学じゃの。
 その頃のお坊さんは仏教だけではなく、医学や化学をも修め、伝来の文化を広める役目を担っておったんじゃ。だから「談林」で学んだんじゃ。
 寺小屋という言葉を知っておるじゃろ。つい百年前までは、寺で子供たちが手習いをしておった。
 わしは、この長福寿寺を「長南キャンパス」と呼んでおる。
 ここは生きている人間のためのお寺なんじゃ。生かされてる意味を考えてもらう学校なんじゃ。
 春先にはフキノトウが芽を吹き、みつがしわが咲き誇り、べに花が畑をうめつくし、やがて夏を迎える。
さわやかな風が竹林をゆらし、ひぐらしが鳴き始めるとそろそろ冬支度。そんな飾らない自然の営みの中で仏さまの素晴らしい心にふれて欲しいのじゃ。
 心と体の健康を、ここ長福寿寺で育んでほしい。それが和尚の夢なんじゃ。

             太平埜山 長福寿寺 学頭 今井長新
   
 
  【楽しく生きる「仏さまの教え」と先祖供養】

 知ってました? 仏教は皆さま方が《楽しく元氣に生きるための教え》なんですよ。
 漢字だらけのお経を「むにゃむにゃ…」と読んでいるので、よく誤解されるのですが、実は「お経」の中身は《皆さん方が楽しく元氣に生きるための教え》が説かれているのです。
 ですから、皆さん方もお経を読み、その内容の解説である法話に耳を傾け、お経の中身を理解して、その教えを日々の生活の中で実践して下さい。
 そうすれば、必ず皆さん自身が幸せになれるのです。
 2500年前から脈々と伝えられている「ありがたい教え」です。間違いありません。
 また、「仏教は難しい」とよく言われますが、本来は生活に身近な教えだったのです。本当に難しければ2500年も続くはずがありません。
 難しくしてしまったのは…最近の坊主の怠慢? …わかりやすく見直さなければ(誓)
 
 ついで…どうして法事などでお経を称えるのかと申しますと…。お経を称え、それを日々の生活の中で実践して《皆さま自身が幸せになる》。
 その幸せを亡き菩提やご先祖様に「廻して向けて」あげているのです。だから、ご法事のことを「ご廻向」と呼ぶのです。
 そう考えると、皆さま自身が仏さまの教えを理解し、実践し、幸せにならなければ本当の意味での先祖供養はできないのかも知れません。
 ぜひ、仏さまの教えを日々の生活で実践し、幸せになって下さい。
 

●書き出す」ことの御利益はたくさんあります。   
                    (平成20年7月1日)
 
 仏さまは、「困ったこと」「悩み事がある時」「何事も上手くいかない時」「焦ったとき」には、心の中をすべて書き出してみなさい…と教えられています。
 とかく私たちは「悩み事」などがあると、「困った、困った」と右往左往しがちなのですが、そのような時にこそ腰を落ち着かせて、紙とペンを持ち、何でも良いから思うことを書き殴ってみると、不思議と心が落ち着いてくるものです。
 その時に注意したいのは、系列立てて書こうとしないことです。
 順序や論理を整理して書き出そうと思うと何も書けなくなってしまいます。 
 とにかく「書き殴る」ことが大切なのです。
 そして、書き出したことを後ほど見直してもいいですし、そのままゴミ箱に捨てても構いません。
 書き出すことによって、自分自身の「内面の根源力」が湧いてくるため、その後は心が晴れ晴れとしてきます。
 私自身も毎日、寝る前に「一日の思いを書き出し」、その後に晩のお勤めをしてから寝ています。
 偉大なる仏さまの教えです。若おしょうにダマされたと思って一度やって見てください。自分自身の根源パワーに驚くことでしょう。
 

  ● 「いただきます!」って何で言うの?
              (平成20年6月1日)
     
 
食事の前に「いただきます!」と手を合わせているご家庭は少なくないと思います。
 統計で見ると、食事前の「いただきます!」が出来ている家庭ではグレたり、引きこもりになったりする子供が少なく、明るく元氣な家庭が多いそうです。実際その通りだと思います。
 しかし悲しいことに、ある小学校で母親が「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから言わなくて良い。」と申し入れをしたことがありました。また、「食堂で『いただきます』と言ったら、隣のおばさんに『何で?』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」という話もあります。
 このお母さんやおばさんは、「《いただきます》は給食業者や店に対して言っているのであり、お金を払っているんだから、そんなことは言わなくて良いのだ」という考え方ですね。…う〜ん、悲しいものです。
 実は、食事の前に「いただきます!」というのは、給食業者の方に言っているわけではありません。正確には《特定の人》に向けられたものではなく、これから食べる肉や魚や野菜などの食べモノに対して、そして作ってくれたすべての人たちに対して「感謝の気持ち」を表わしているのです。
 「いただく」とは、漢字で書くと「頂く」となります。仏教で最高の敬意をあらわす「頂礼」に由来します。
 同じ生きモノでありながら、自分以外の命をいただかなくては生きていけない私たちが、命を捧げて食べモノとなってくれている生きモノに対して感謝する気持ちが「いただきます!」の言葉なのです。
 手を合わせるのは、相手の仏性(同じ生きモノであり、同じ仏さまの子供であるということ)に対して尊ぶ心です。
  ぜひ「いただきます!」を元氣に言って、幸せな家庭を築いて下さい。

 ●チベット問題を考える…
          (平成20年5月1日)

 3月に中国チベット自治区ラサで暴動が起きました。その理由はチベット人が自分たちの自由を求めてのことです。もともとチベットは独立国でラマ教を始めとした独自の文化や宗教があります。それが共産党政府が侵略して自国の一部にしてしまいました。その際、中国人民解放軍は、夥しい規模の破壊とともに、チベット族の大量虐殺を行ったと言われています。またその後も僧侶や尼僧に対しての迫害、男性への断種や女性への中国兵による強姦、そして人民解放軍による大量虐殺もあり国際的に非難されています。文化大革命時には紅衛兵による寺院の破壊もありました。これまでに虐殺されたチベット人は120万人にも上り、現在も600人のチベット人が政治犯として投獄されているのです。
 私は、中国を一方的に非難するつもりはありません。それぞれの国により思想が違うのは当たり前だからです。また、中国人一人一人が悪いとも思いません。彼らは情報操作により事実を「知らせられていない」のだと思います。
 ただし、今回のチベットと中国との問題を個人的な仏教観に基づいて発言させていただくならば、中国はあきらかに間違った行動を取っていると思います。まずは人の命を奪う行為です。仏教では「生きとし生けるものすべてを殺してはいけない。」という教えがあります。経典には「仏の教えは何よりも慈悲(じひ)が根本である。慈悲の要点は“生きものの命を護(まも)ること”である。自分を思いやると同じように相手を思いやりなさい。」と説かれているように、私たちが他人の命を奪う行為は決して許されることではありません。
 さらには人権問題です。たとえ民族が違っていても、思想が異なっていたとしても、その異を認めるのが仏教の寛容性です。仏教では「自分と相手との異り・長所を認め合うこと」が大切だと説いています。多様性を認め、受け入れる…これこそが仏教の深遠なる教えの極致であり、素晴らしさなのではないでしょうか。
 それを力づくでねじ伏せて迫害するというのは間違った行動であり、非難されて当たり前です。
 仏教はもともとインドで生まれましたが、中国・朝鮮半島を経由して日本に伝わりました。中国という仏教大国がなければ、今の日本に仏教はあり得ないというのが本当のところです。しかし、今の中国に仏教思想はありません。もともと[寛容]という言葉がピッタリのおおらかな中国人なのですが、現在の中国はどうしたのでしょうか? 見解を疑いたくなります。
 さて、それでは私たちは何をすればよいのでしょうか? まず私たちは、こういう実態をきちんと知り、国際的に言葉を発していかなければなりません。知らないことは残念なことですが、それはそれで仕方が無いことです。しかし、知っていて「考えない」「知らんぷりを決め込む」ことは避けるべきでしょう。
 まずは「知り」そして「自分の意見を述べる」。
 それぞれの方が自分の意見を述べることにより、それが大きな力となって、チベットも中国も【異を認める寛容な社会】を築いていけるのではないでしょうか? 
 それが仏教的な世直しだと信じています。

  ●チベットについて知りたいのなら…http://www.tibethouse.jp/about/outline.html

 

●『四國順拝、無事に結願しました。』−bQ
          (平成20年4月7日)

 さて、さらにアクシデント…いえ、仏さまからのプレゼント…はまだまだ続きます。
 5日目の朝一番で、20番の鶴林寺へお参りし、21番の太龍寺、22番の平等寺へお参りしたまでは良かったのですが、この時点で午後3時半であったので、あと3時間は歩けるだろうと…歩き出したのが…(痛)…ほとんど往来のない道路、しかもとても寒い夜で野宿は無理、でも宿どころか人気も見えない…いや〜参りました。ここで寝たら凍え死ぬと思い、トボトボと歩いて…ほとんど這っていると言った方が適切なぐらい足を引きづっていたような…お腹も減って力が出ない状態で午後9時を迎えようとしていました。…「いよいよ最悪の状態か!」と恐怖に陥っていた時に一台のKトラが現れ、私を拾ってくれたのです。そして、その方が歩き遍路の救世主・無料で宿を提供して下さることで有名な橋本さんだったのです。本当に仏縁だな〜と感銘しました。
 車で宿まで連れて行っていただき、自らが経営するレストランで食事までご馳走になり、本当に九死に一生を得る思いでした。ぜひ、皆さまも23番の薬王寺に参拝する際には、目の前にある「はしもとドライブイン」にお立ち寄り下さいませ。
 13日目は窪川から中村までの48キロをひたすら歩く一日でした。それもすべてがアスファルト…この時ほど山道が恋しかったことはないです。その時に、どこからともなく、誰からでもなく教えられたことがあります。それは【人を赦せる】ということです。「自分だけが正しいと頑なになるのではなく、自分自身も悪事をしているのだから人を赦せる人間になろう」…と、何故か心に染みてくる教えがあったのです。…たぶん、お大師様からの教えなのでしょう。
 ダンプに牽かれそうになったことも何度もありました。雨の日は車に水をかけられたこともありました。食べるモノが何も無くて一日絶食の時もありました。雪道で足袋の中に氷水が染みてくることもありました。足の傷口が化膿して歩けなくなったこともありました。道に迷ったことなど何度もあります。…でも、でも、すべてがお大師様からの教えなのですね。そのことに気がつかせていただけると、何があっても楽しいことばかりです。


 また、途中で出会った数々の素晴らしい方からも教えをいただくことができました。
 千葉県松戸市の伊藤さん、19番の立江寺で初めて出会ってから、ご一緒させていただくことしばしばでした。その伊藤さんから教えていただいたことは…「人生はあざなえる縄の如し。楽しい時ばかりではない。辛いときもるのだ。そんな時に心の支えとなるのが仏さまの教えと信仰なのではないのか?」ということでした。僧侶である私以上に仏さまを信仰し、教えを実践している方でした。伊藤さんは毎日宿に入ると写経し、翌日の寺に奉納されている素晴らしい方です。足が不自由な五体不満足の犬をわざわざ引き取り家で飼っているというお話からも伊藤さんの心優しさを窺い知ることができました。「私たち自身も生かさせていただいているのだ」ということを身体で教えて下さる方でした。
 また、35番の清滝寺にてお目に掛かった菊池さんは86歳、奥様を亡くされてから歩き遍路を始め、今年で14回目だそうです。菊池さんがスゴイのは、「空き缶」を拾いながら遍路をしているのです。普通に歩いていくだけでも大変なのに、空き缶を拾ってビニール袋に入れ、背負っていくのです。だから2ヶ月もかかる難行となるそうです。
 その菊池さんがおっしゃっていたのが「人のことは言わない、自分の自慢はしない」との教えでした。日頃より他人を中傷する癖のある私には、殊の外厳しい教えとなりました。
 20歳の女学生・糸井さんとは38番の金剛福寺をお参りした後に出会いました。なかなかの美女なのに野宿もOKという強者で、あまりの強行軍に足を痛めたので、病院に立ち寄りながらの遍路を続けているとのことでした。女性の身ですので、男性以上に大変だと思います。…でも、自分の人生の本当の意味を見いだしたいとの想いから歩き遍路をしているとのことでした。
 そして、最後に巡り会ったのが、結願まで共にした立命館大学の北谷君です。
 北谷君はお爺さんが遍路をされた関係で、幼少の頃より遍路に憧れ、大学に入学した今年、やっと念願の遍路に来られたとのことでした。北谷君と初めて出会ったのは44番の大宝寺の雪積もる門前に於てでした。雪が積もっているため岩屋寺への道がわからず二人して迷っていたのが仏縁となったのです。一緒に岩屋寺に行こうということになり、雪道を語り合いながら共に歩んだものです。そして、その後「別れては会い、別れては会い」と不思議なご縁で幾度となく出会うので、これも仏縁ですね…ということになり、結願を一緒に歩きました。
 北谷君とは、彼女のこと、母のこと、将来の夢などいろいろと話し合い、大いに感じ入ることがあったものです。特に「母親」についての話となり、母親の影なる愛情とご恩についてとても考えさせられました。私も、これまでの恩を忘れ、自分一人で大きくなったように勘違いすること度々でしたが、北谷くんからいろいろと教わるたびに、「母親を大切にしよう」と誓ったのです。
 また、「すべての人から教わることがある」というのも、二人で導き出した結論でした。
 この36日を通して気づいたことは【歩き遍路は人生そのもの】…ということです。
 楽しいこともあり、辛いこともあり、いろんな方々のお世話になって生かさせていただいている。そして、何かに迷い、道に迷ってもいいじゃないか。けっして近道だけが人生じゃないんだ。」ということをお大師様に教えていただいたような気がします。
 本当にいろんなことを教えていただきました。ずっと同行二人をして下さったお大師様、四國遍路の道をご指導下さった白戸先生、伊藤さん、菊池さん、北谷君、そしてご縁あって出会ったすべての方々、また、すべての山川草木、すべてに感謝です。本当にありがとうございました。

  ●『四國順拝、無事に結願しました。』−bP
          (平成20年3月13日)

  先日、四國八十八ヶ所の順拝を無事に結願させていただくことができました。
 全長1200キロの道のりを36日かけて歩いてお参りさせていただきました。
 地下足袋・法衣(坊さんの服装)での歩き遍路だったので、自分なりにいろいろと考えされられ、いろいろと感じ、とても多くのことを学ばせていただくことができました。
 梅の咲き始める2月初めに出発し、初日から八番の熊谷寺まで歩かせていただくことができたのですが、地下足袋では素足とほとんど変わらず、初日から血豆がつぶれて地下足袋の中は血だらけ、歩行困難となりました。…そんな時にうどん亭の方に拾っていただき、うどんまでご馳走になることができました。初日からこのように温かい方と出会えたことは幸先が良いと悦んだものです。
 初日から足が血だらけになったのはとても辛く痛いことなのですが、お陰様で足の悪い方やお年寄りの方の気持ちがとても良くわかるようになったものです。
 たとえば、「道路というのは平ら」…と思っていると大間違い。断面図は…多分…ちょっと円形になっていると思います。水はけのために…。普段私たちは何気なく平らな道だと思って歩いていますが、1日40キロも50キロも歩いて足が岩のように重たくなった時には路面の微妙な凹凸でつまづいたり、転んだりするのです。
 つくづく、道路は人間のために造られたのではなく、車のためにあるのだと実感したしだいです。
 どんなに急坂であろうと、山道の方が気持ちいいのは私だけではないでしょう…。
 「遍路コロガシ」と言われる難所の焼山寺越えは2日目にやってきました。本来ならば藤井寺までお参りし、翌朝に焼山寺へ向かうのですが、燃えに燃えていた私はついつい足を伸ばしてしまいました。…これが「事件」のはじまりでした…
 焼山寺越えは、ご存じの通り「遍路コロガシ」と呼ばれる急坂が13キロ…本当に何度もくじけそうになりました。しかし、お大師様と《同行二人》であると信じ、懸命に「南無大師遍上金剛」とお称えし歩きつづけました。途中、階段の上にお大師様の銅像を仰ぎ見た時には、本当に《同行二人》を実感したものです。焼山寺には午後の4時50分に到着、無事にお参りすることができ一安心です。…しかし、ここで事件発覚…泊まるところが無い! 焼山寺の宿坊に泊まる予定で歩いていたのですが…なんと、2月は休みなんだそうです。…野宿をするといっても、まだ雪が残っている門前では凍え死んでしまいます。仕方なく更に4キロ程トボトボと歩いて、やっと宿に着いたときには6時半を回って、辺りは真っ暗でした。…いや〜、山道を含め30キロを歩いたのでさすがにバテました。でも、この山道が今でも一番の思い出です。
  ●三千仏礼拝行を修しました。
              (平成20年3月12日)
     
 先般、天台荒行の一つ、三千仏礼拝行を厳修しました。
 礼拝行とは、両ひざ・両ひじ・額の五箇所を地面につけ平伏し、そこから立ち上がり合掌をする…この作法を仏さまの尊名を称えながら繰り返すものです。
 十回、二十回ならば特に問題は無いのですが、三千回ともなると足腰はガクガクし、両ひじは腫れ上がり、ヒザは擦り剥けて血が噴き出してきます。
 比叡山でも、あまりの難行のため三千を三日間に分け、一日千仏ずつ行うようにしています。しかし、今回は三千仏を一昼夜ぶっ通し、十八時間不眠不休で礼拝をし続けました。
 特に今回、私が導師といって、一番中央のご本尊前にて執り行ったため、仏さまからのご加護をいただくことができ、とても良い体験と勉強ができたと心より感謝しております。
 この礼拝行とは、仏さまの御前に自己をすべて投げ出す姿勢であり、すべてをまかせきるという敬虔な姿です。
 普通の解釈であれば、仏さまへの敬虔な気持ちがあって、その気持ちのあらわれとして礼拝をするというところでしょうが、不思議なもので、深くおじぎをしたり礼拝することによってさらにどんどんと敬意がわいてくるものなのです。礼拝とは、人間を深い内省に導くものなのかもしれません。
 事実、自我が強く、「自分の力だけで礼拝をしているのだ」…と勘違いしている人は途中でバテてしまいます。
 すべてを仏さまにお任せする…この心運びがとても大事なのだそうです。
 実は、この「すべてを仏さまにお任せする」ということは、自分自身の中に内在する《善良な心》を拝み、導き出す修行に他なりません。
 今回、天台宗の中でも荒行の一つとされている三千仏礼拝行を厳修することによって、そんな感じを受けることができました。
 ありがたや、ありがたや。

 なお、その後引き続き四國順拝に行き、八十八ヶ所の歩き遍路を結願してまいりました。この四國遍路についてのご報告は次の機会にてさせていただきます。
 …地下足袋での歩き遍路だったので、今でも足が腫れ上がっています。

 ●赦し−ゆるし−
          (平成20年2月1日)

 先日、倉田百三氏の名著「出家とその弟子」を久しぶりに読み返しました。
 この本は1917年にかかれた名著で、浄土真宗の開祖・親鸞聖人を主人公としています。
 その内容は悩める我々に救いの手を差し伸べてくれる素晴らしいものです。特に「罪や悪」についてとても深い智慧を与えてくれます。
 その内容とは…「人間はもともと悪人である」というところから始まります。何故かと申しますと、私たちは同じ仏さまの子である他人を呪ったり、恨んだり、怒ったりすることが良くあります。また、同じ仏さまの子である魚肉を食べて生きているのですから…。この辺りは先々月の「お尚」に説かれていることと同じですね…。
 事実、私たちには善を慕う心があります。けれども悪を作らずに生きていくことはできないのです。絶対に他の生命を損じないことが出来ないのですから…。
 しかし、仏さまは私たちを悪いままで助けて下さいます。私たちの罪を赦(ゆる)して下さるのです。それが仏さまの慈悲心なのです。 その、罪深い私たちを仏さまが赦して下さるように、私たちも他の人々を赦してあげましょう。慈悲の眼で見てあげましょう。悲しみを耐え忍びましょう。何もかも、すべてを仏さまにお任せする素直な心を持つことが幸せになる一番の近道なのです。
 善いとか悪いということはなかなか定められるものではありません。それは仏さまの智慧で初めて解ることなのだから…。
 今の私たちの善悪判断は所詮「人間の判断」でしか無いのです。だからこそ、我々人間は裁かずに赦(ゆる)さなければならないのです。ちょうど仏さまが我々を赦して下さるように…。
 不合理なことがあっても人を恨むな。仏さまを疑うな。悲しみを耐え忍べ。忍耐は己に徳を積み重ねてくれる。隣人を愛せよ。旅人を懇ろにせよ。仏さまの名によって皆な繋がってくれ。裁く心に悪魔が住み着くのだ。」…と、このようなことが述べられています。実に深い信仰心から滲み出てくる教えです。私は目から鱗が落ちる思いがしました。皆さまはいかがでしょうか。ぜひ、ご意見をお聞かせ下さい。また、以上のことは私が読んで感じたことであり、皆さまが読むと違った受け止め方があるのかもしれません。岩波文庫から出ている540円の本です。ぜひ一度読んでみて下さい。  


 
   ●今年の願いごとは何ですか? 
          (平成20年1月1日)

 皆さん、明けましてお元氣さまでございます。長福寿寺の今井長秀です。
 いよいよ2008年も明けました。新年ってホントにいいですよね。
 さて、皆さんは今年をどんな年にしたいと願っていますか?
 …
実は、「お願い事」って大切なんですよ。
 もちろん、「俺が、俺が!」という我欲や執着がある願い事は自分にとってもマイナスを生じさせますが、
「みんなのために、みんなと共に」という他人をも利益させる願い事は仏さまも大歓迎です。
 この「みんなのために、みんなと共に」のお願い事を仏教では【誓願(せいがん)】と呼びます。
 皆さまそれぞれの心の中にいる仏さま…仏性といいます…に誓いを樹てるのです。いわゆる目標になるのですね。すると、心の中にいる仏さまも援護して下さり、周りの人々はもちろんのこと、ネズミや犬や猫、草花までもが応援してくださるようになるのです。…面白いもんですね。(このことは昨年、四国遍路して実感させていただきました。)
 ですから、「家族円満でありますように」という他力本願でお願いするより、「家族円満に精進します」と、誓願・決意の心でお願いすると良いです。
 このことは『維摩経』というありがたい教典に説かれてることですので、騙されたと思って実行してみてください。出来れば、紙に記して机の前やお仏壇に貼っておく方が良いそうです。毎日見て、心を新たにするのですね。そうすれば、必ず『願いは叶う!』ものです。

 さて、私もいろいろと願い事(目標)を樹てたのですが、その一つに『今年はどんなことがあっても人の悪口を言わない』というのを記しました。人間はとかく「自分だけが正しく、他人は信じない」…と自分の殻に閉じこもり気味ですが、それでは自分自身のパワーを最大限に引き出すことも、仏さまからのご加護をいただくことも出来ないでしょう。仏道修行者の大切な決まり事の一つに《不悪口》…悪口をいうなかれ。というのがあります。2500年前から説かれている真理なのですかね。
 今年は何かあっても〈飲み込む〉ように精進します。完璧に実行できる自信はあまりありませんが、とにかく前向きに進んでみたいと思います。
皆さまも「願い事」をして一緒に歩みましょう。

 ※今年の四国遍路は2月21日より厳修させていただきます。
    今年も極寒時期ですね〜。

 ●「悔い改める心」が仏道修行そのもの 
          
(平成19年12月1日)

 先日、教誨師(きようかいし)[罪人に対して仏の教えを説き、悔い改めさせる僧侶]と刑務所に同行し、そこに収監されている人との対話を聞く機会を得ることができました。
 私自身「仏教では罪を犯した人をどのように救うのであろうか?」との疑問を持っていましたので大変勉強になりました。
 また、過去六十年間の犯罪のうち、一度罪を犯した人が再度罪を犯す再犯率が60%近くもあるという衝撃的なデータが先ほど公表され、「悔い改める仕組みの無い刑務所に意味がないのでは?」との疑問もあり、今回は「罪を悔い改めること」について考えてみたいと思います。

  実は…仏教では「私たちは、日常生活の中で数々の罪を犯しているのだ」と教えています。冒頭から受け入れにくい話をしているようですが、現実に考えてみると、食卓に並ぶ魚肉の命を奪うこと、知らないうちに他人の心を傷つけること、他人と自分とを比較し優越感に浸ること。人の悪口を言うこと…などなど、やはり数々の罪を犯していることは間違いないようです。
 しかし、私たちは自分の犯した罪に気づいていないか、もしくは何の反省もせずに他責することしばしばなのではないでしょうか。私も同じです。
 そこで仏さまは、「謙虚に自己の罪を認め、反省(仏教では懺悔(さんげ)といいます)し、いろいろな人々・生き物とのご縁によって生かされている[縁起の道理]を自覚することが、自分の成長にとても大切なのだよ。」と説かれます。逆に、「俺が、俺が!と自己の欲望を前面に出すことが本当の《「悪》なのだ」と教えているのが仏教なのです。
 さて、お正月の《正》は「一つ立ち止まって」と書きます。年の始めに「自分自身を振り返り見つめる」ことも重要なのではないでしょうか?


 
  ●『四苦八苦』 
          (平成19年10月1日)

 お釈迦さまの教えに【四苦八苦】という言葉があります。

 お釈迦さまは「人生は苦しみの連続である」と云われました。ここでの「苦しみ」とは、 「自分の欲するままにならないこと、思い通りにならないこと」を云います。
 事実、人生のほとんどは自分の思い通りにならないことばかりです。特に代表が「四苦八苦」といわれています。@生きていくこと A老いること B病を得ること C死ぬこと D愛別離苦 E怨憎会苦 F求不得苦 G五陰盛苦…の八つです。@からCまでの生老病死は説明するまでも無いでしょう。
 そこで今月はDの 【愛別離苦】について考えてみましょう。 【愛別離苦】…愛する者とも必ず別れがやってくること…。私どもは僧侶として毎週のように葬儀をし、愛別離苦の場に対面します。父親や母親を亡くされた子供たち、妻に先立たれた夫、中でも一番辛いのが子供に先立たれた親の姿です。僧侶である私も親御さんの心を察するに言葉も出ません。その場合、私はとにかく心を込めて一生懸命読経することにしています。その…阿弥陀様へのお祈りの心こそが、肉親を亡くされた方への僧侶としての精一杯の恩返しだと考えているのです。
 そして、この愛別離苦は「死に別れ」だけではありません。生きていても逢えない、別れなければならない…という人生の別れもあります。
 しかし、お釈迦さまはお説きになります。この現実の世の中は「思い通りにならないことが多いのだ。」「諸行無常…どんな人とも必ず別れがやってくるのだ」…それを悟り、肯定し、現在を精一杯生きる。そして、自分ではどうしようも無いことは仏さまにお任せする。…その心が[真実のやすらぎ]を得る秘訣なのだと…。
 …頭では理解していても、なかなか心が受け入れないのも事実です…。この問題は簡単な解決方法は無いのかもしれません。
 もし、よろしければご意見やご質問をいただけますと幸いです。
 ●峰入り修行のご報告
          (平成19年9月1日)

 先日、10日間の山岳修行に行って参りました。
   (名称は明かせない決まりです)
 10日間の中で、断食を行ったり、山の中に入っての回峰行を行ったり、昼夜を問わずの勤行・礼拝行を厳修したり…といった具合です。
 詳しい修行内容を明かしてはいけない決まりとなっているため、修行についてはこれ以上お話できませんが、何よりもビックリしたのは、人間の「我欲」の強さでした。
 厳しい修行によって極限状態に追い込まれると自分自身の「業」が顕わとなってくるのです。
 特に娑婆世界である程度の地位を得たり、お金をたくさん持っているような方は、自分の成功体験に凝り固まり、修行を素直に受け入れることが出来ないのです。
 他人のことなど考えず、自分の都合の良いように仏教を勘違いして理解し、自分のことだけでいっぱいになっている人が結構多く見受けられました。
 このように話している私自身も指導員の先生から何度か注意を受けました。しかし、注意を受けてもガンコに自分の殻に閉じこもっている方を見ていると、『法華経』如来寿量品の【質直意柔軟】という一句が思い出されます。

  【質直意柔軟】とは、つねに心を柔らかく素直に保つことが仏道修行であり、幸せになる秘訣であるということです。

 人間は誰でも「自分が正しく、他人を信じない」といった殻に閉じこもるガンコな部分を持っています。私などは多分にその傾向が強かったと思います
   …いえ、今でも強いです(笑)
 でも、自分の固定観念に固執していると、それ以上成長しません。心をスポンジのように柔らかくして、清らかな素直な心で人と接することができると良いのではないでしょうか?
 仏道修行においても同じこと云われます。ぜひ、心を柔らかく素直にして毎日の生活を過ごしたいものです。  


 
  ●『お遍路(へんろ)で教えていただいたこと』 
          (平成19年8月1日)

 先般、四国のお遍路に行って参りました。
 当寺院は天台宗ですので、特に四国遍路を行う必要は無いのですが、師匠からも四国遍路で教えていただけることの大きさを知らさせていましたので、以前より切望しておりました。
 師匠から言われたことは「会う人すべてを仏さまだと思え」ということでした。
 そこで気がついた「お遍路」の本当の意味とは…。

 実は「遍」という字は「あまねし」と読むんですね。つまり、
 「あまねき路(みち)」→人の生き方や考え方にも遍き路があるんだ。
これを前提にして、「まず、すべてを認める。人を恕(ゆる)す。」ということに気づかせていただきました。
 たとえば、大同小異という言葉があります。日本人が読むと「小さな異(ちが)いを捨てて大きく同ずる」となってしまうことが多いのです。つまり、日本人は他人と何かする時に、小さな異(ちが)いまでをも一緒になろうとする。だからどうしても「事なかれ主義」「他人の顔色を見る」「異なる考え方を排除する」という現象が生まれます。しかし、本来の仏教的解釈によれば、「小さな異(ちが)いを認めて大きく同ずる」と読みます。
 つまり、《一人一人が異っていることを、異なりは異なりのまま、そのまま認め、大きな方向性を同じくして強力していく》ことの大切さを教えているのです。お互いの長所を活かしあいながらの和と、べったりと何もかも同じにならないといけない和とでは大分違うように思われます。
 自分と他の人とでは「顔が異(ちが)うように、考え方も性格も、そして長所も異(ちが)います。だからこそ、【お互いの異(ちが)い・長所を認め合う】ことがすべての人が遍く幸せになる秘訣なのではないでしょうか。遍路修行でそのように感じました。
●すべての出来事は仏さまからの試練
                     (7月)

昨今、何かにつけて自分を省みることをせず、すべての失敗を他人のせいにしている方を
よく見かけます。
 「自分は正しく、他人が間違っている。」「こんなことになったのはアイツのせいだ…」と
いった類です。
 しかし、仏教では【人生で起こるすべての出来事は仏さまが意図的に下さった試練】なのだと教えています。
 つまり、仏さまが、あなた自身を「元氣で幸せにするために」、「何か大切なことを気づかせてくれるために」必然的に試練を与えて下さっているのです。
 そして、仏さまが必然的に与えてくれる試練なのですから、解決できない問題は決して起こりません。
 前向きに、我欲を取り除き、慈悲心を以て取り組めば、後で必ず「あの問題が起きてよかった。そのお陰で…」と言えるような恩恵をもたらすのです。

 特に、一生懸命努力しているのに、ものごとが上手くいかない時は、「俺が、俺が!」という我執(がしゅう=自分のことばかり考えること)が強くないか省みて下さい。
 「自分の見栄や外聞、名誉、自己の利益のためだけに動いていないか」自分の心の中を見つめて見てください。
 我執が強いと、どんなに実力があっても、努力しても人々の協力が得られず、また仏さまのご加護もいただけず、何ごとも成しがたいものです。
 お経にも、自らの心の内に巣くう「我執」を取り除き、《みんなのために、みんなと共に》という念(おも)いを持ち続ければ、何ごとも上手くいき、願いが成就すると説かれています。
                             『法華経』より

  ●あらゆる人が菩薩さま
              (平成19年6月1日)

 私の大好きな『維摩経』にこのような言葉が説かれています。

「五道の衆生は皆な是れ菩薩の慈善根の力なり。
 五道に生じて其の身を示現し、事を同じて、法を説きて、即ち能く五道及び六道を度すなり。」

 これを現代語訳させていただくと、

「あなたの廻りにいる人々は、好きな人も、嫌いな人も、
 すべて菩薩の化身です。
 好きな人はあなたの長所を伸ばすために教えを説き、
 嫌いな人はあなたを幸せに導くために敢えて嫌いな姿に
 身を変えて苦言を呈しているのです。
 あらゆる人があなたにとって菩薩なのです。」

となります。
 つまり、自分の人生を幸せにするために周りの方すべてが菩薩さまだと考えて下さい。
 人間関係で悩んでいる方を見ていると、相手を変えよう、相手を変えようとしている方を多く見かけます。
しかし、お釈迦様の教えに
  「仏土は即ち衆生の影響(ようごう)なるのみ」
  「物の宜(よろ)しき所に従いて国を制す」とあるように、相手は変わるものではありません。それよりも自分のモノの見方・考え方を変えることのほうが自分自身が幸せになるための絶対条件となるのです。
 人間は「他責」することが得意です。ですからこのクセはすぐには直らないかも知れませんが、ぜひ、毎朝仏さまに「あらゆる人が菩薩なのだ。」と誓いを立ててみて下さい。
 必ず貴方自身の人生が元氣で楽しく愉快なモノになること間違いありません。
                  
  ●『はきものをそろえると、心もそろう』  
                 (平成19年5月1日)

 仏さまの「ありがたい教え」を実践していくには、
【心】の方から修行して行く方法と、
【形】の方から修行する二つの方法があります。
 しかし、私どものような心の弱い者は、形から入っていく方がやさしく、自然と心も整っていくものです。
 お坊さんが作法をやかましく言うのは、そのためです。
 そして、その始まりが「はきものをそろえる」ことです。


 はきものが乱れている時は、心も乱れているのです。
 子供をみればすぐわかります。
 落ち着きがない子供の靴は、玄関の中で宇宙遊泳しているものです。
 逆に、はきものがそろっている人は心も整い、やることすべてがきれいでうまくいくのです。
 そのためには「ぬぐ時にそろえておくと、はく時に心が乱れない」のです。
 私が法事などでおじゃまして、玄関の靴がきちっとそろっているお宅は、
やはり家族全員が明るく、みんな幸せです。
 ぜひ、皆さんのご家庭でも「はきものをそろえ」幸せな家庭を築きましょう。

  ●『自分らしく、心豊かに生きるために』 
          (平成19年4月1日)

 『阿弥陀経』の中に「池中蓮華。大如車輪。青色青光。黄色黄光。赤色赤光。白色白光。微妙香潔。舎利弗。極楽浄土。成就如是。功徳荘厳」という経文があります。  
 私自身がとても好きな経文の一つなのですが、直訳すると「池の中では、蓮の花が車輪のように大きな花びらを咲かせ、青い花は青い光を、
黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光で輝いています。その輝きは素晴らしく清浄です。舎利弗(仏弟子の一人)よ、極楽浄土とは、このような「心もち」と「生き方」を成し遂げることなのです。
そうすれば、必ず楽しく心豊かに過ごすことができるのです。」となります。
さて、「青い花は青い光を…」とは何を説いているのでしょうか。
 この経文は【自分自身の特長をよく見極め、自分らしく生きなさい。」ということなのです。
 得てして人は、自分自身を見つめることよりも、世間の噂や他人の目を気にし、振れ回され、自分自身の本当の良さを見失っているものです。
 この『阿弥陀経』では、【それぞれの人が、自分の持てる力を最大限に輝かせ、その素晴らしい力を、みんなの為に活かすことが、「心豊かに、楽しく生きるための秘訣」なのです。】と説いているのです。
 また、自分が自分らしく生きていれば、他人を他人らしく、そのまま認めることができ、いがみ合いも起きません。
 この「心もち」と「生き方」を日々の生活の中で活かし、楽しく愉快で、みんなと仲良く過ごせる毎日をおくって下さい。

 
 
檀家総代の石井です。長福寿寺は「生きている人間を幸せにするのが仏教である」をモットーにして、なかなか面白い活動をしていると思います。「べに花」を始めとして、「座禅会」や「講演会」「写経会」「仏像作り」など多種多様です。学頭さんのパワーがもの凄いので圧倒されることしばしばですが、とにかく面白い寺であることに間違いありません。総代として自慢の寺です。私も「べに花」作りの活動に参加させていただいています。とても充実して楽しい毎日です。皆さんも、ぜひ一度遊びにいらして下さい。  
以下の長南キャンパスなどは、寺としてはまず見られない活動の一つです。
 学頭さん曰く、「若い方に対して初っぱなから法話をしても見向きもされない。まずテニスを通じて寺に親しんでもらい、その後に仏さまの教えに近づいてもらうんだ。」…とのことです。いや、おっしゃる通りですね。
 
 
テニスキャンプ専門のテニスリゾート施設です。
【社会人向けのテニスキャンプ施設です】
東京からわずか80分、千葉市内から30分。
長南キャンパスで房総のポカポカ太陽とまばゆい大自然、そして心地よい風が最高のテニスキャンプを
演出します。
どうぞ楽しい仲間とテニスキャンプを心ゆくまでお楽しみ下さい。
1団体への貸切りが基本ですので、他の団体を気にすることなくお楽しみいただくことができます。
 オムニコート3面(ナイター2面)、テニスコートまでは歩いて1分。
 テニスコート隣接のテラスでビール片手に試合観戦できるのも醍醐味の一つです。
 お食事も女将自慢の房総海の幸・山の幸・自前の畑で採れた新鮮野菜の旨みを存分に活かした
美味しい料理です。
   
●お車利用   首都高速より京葉道路にて蘇我インター下車、
茂原街道経由にて皿木交差点右折し長南キャンパスへ。
【東京より80分・蘇我インターより30分です。】
●電車利用   外房線茂原駅下車、長南行バスにて愛宕町又は三又下車徒歩3分
【時間・人数によっては送迎も致します。お気軽にお問い合わせ下さい。】
精進料理
 
◆とても美味しい「精進料理」が食べられます
 精進料理は、とても美味しく、また健康・長寿に良い食事です。
 特に当山の精進料理は、大自然の中、お尚自らが愛情を込めて栽培した材料を、女将が1200年の伝統の業で調理しました。
ぜひ一度召し上がってみて下さい。
 また、「たけのこ御前(4月中旬)」「べに花御膳(6月中旬)」「あみだ長寿膳(通年)」もお薦めです。
 婦人会やお友達同士の会食にとても喜ばれています。

  ※なお、当山の精進料理は、お召し上がりやすくするために
   若干の魚肉を使用しています。

  ※食事会場も洒落たログハウス(イス)です。木の香りも素敵ですよ。
   
  ◆お料理は五千円から承っております。

 [献立]大豆・胡麻・レンコン・みょうが…など、仏典に基づく健康活力
     溢れる食材を中心に、九十九里の海の幸、長南の山の幸、
     お尚さんが丹精込めて作った新鮮野菜を長福寿寺1200年の
     秘伝の調理法により絶妙な味わいを引き出します。
     食べるだけで心豊かになり、今まで以上に元氣パワーが
     あふれること間違いありません。
 
●え? 「けむりの木」?
モクモクと煙のように繁る不思議な木は
  正式名称 [スモークツリー]…けむりの木です。

 ウルシ科の落葉低木で、中国が原産です。
 中国からヒマラヤにかけての岩山に生えていますが、まだまだ謎の多い木です。
 6月中旬[ちょうど紅花の時期です]に「ふわふわ」となり、7月初には「真っ白」となります。
 まさに「けむりの木」ですね。
 当山のスモークツリーは千葉県下でも最大級といわれています。
 
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